山縣 有朋 やまがた ありとも
   

洛北散歩の途上
大ひえの 高ねに虹は みえながら
をりをり加茂の もりそしくるる
洛北(=京都北部)散歩の途上
大ひえ(=比叡山二峰の大きい方、大岳)の 高嶺に虹は 見えながら
折々加茂の 森ぞ時雨るる
120p×34.5p

天保9年閏4月22日(1838年6月14日)生〜大正11年(1922)2月1日歿
 長州藩領内の蔵元附中間(足軽より低い身分)だった三郎有稔の二男として生まれる。幼名は辰之助、通称は小助、のち小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。
 尊皇攘夷派の影響を受け、久坂玄端の紹介で松下村塾に入門、生涯師と仰ぎ続けた吉田松陰と出会う。山県の松下村塾在塾期間は極めて短かったが、松陰に多大な影響を受け、終生深く畏敬していた。また、生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていた。
 文久3年(1863)に、上海に渡航した高杉晋作に代わって奇兵隊軍監として大いに活躍。元治元年(1864)の四国連合艦隊との交戦で負傷した際、武器と兵制の改革の必要性を痛感し、尊王攘夷論から開国論に転じた。
 慶応元年(1865)、長州藩の俗論派(佐幕派)と正義派(倒幕派)が激突した大田・絵堂の戦いでは、正義派に奇兵隊軍艦として参戦。長州藩藩論を倒幕へと決定づけたこの戦いの勝利に貢献した。
 明治元年の戊辰戦争には、奇兵隊を率いて北陸道鎮撫総督兼会津征討総督の参謀として、長岡攻略戦に河井継之助らと戦かい苦戦した。後に会津攻略にも参加した。
 明治2年(1869)渡欧し、各国の軍事制度を視察し、翌年帰国した後は暗殺された大村益次郎の遺志を継いで軍制改革を行い、徴兵制を取り入れた。
 明治6年(1873)に陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定に深く関わり、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山縣が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。
 明治22年(1889)に第9代内閣総理大臣に就任。軍備拡張を進める。明治31年(1898)、第2次山縣内閣発足。参謀総長、枢密院議長なども務めた。伊藤博文亡きあと最大の発言力をもつ元老として、軍や政界に重きをなし、首相選定の主導権を握った。
 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。当時の国民、政治家、皇室からはことごとく不人気であったが、昭和天皇は軍人山縣有朋を評価している。
 自身が得た階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。

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